雑考 道としての居合 其之一
当会 無雙直傳英信流 武蔵野稽古会はその会名に居合道を冠していません。
自らの居合を「道」たり得ると謳うなど不遜である、という自戒を籠めたものでもあります。
無雙直傳英信流が元々総合武術であったという事、またその総合武術を総じて居合としていた事から、無雙直傳英信流 即 居合であるという考えでもあります。
しかし乍ら、当会は無雙直傳英信流居合道 第二十一代宗家 福井虎雄聖山師直門 清田泰山師に伝承された正統二十一代の業及びその理合と武士道の徳目を習得し、後世へ伝承する「道場」でもあります。
広義では「柔道」「剣道」と同じく、居合という武術を指す現代の総称として「居合道」であり、当会もこの意では紛れもなく居合道の道場です。
しかし狭義では元和偃武以降、急速に進んだと思われる武術から武道への変遷に於いて、武術と精神性を不可分とする「道」には武術、武芸とはその意義を異にするなにかが潜在します。
本稿では狭義での居合「道」とはなにか、所謂武術、兵法とは異なるものなのか、あくまで不肖无拍の私見として、浅識乍ら雑考してみたいと思います
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2020年12月5日 初出
雑考 道としての居合 其之二
居合の世界にいると、居合道、武士道といった言葉をよく聞きます。
昔、まだ当会を発足させる遥か以前に、ある道場でこんなことがありました。
二人の年配者が口論となり、そのうちに片方のかたが「武士道に反する、腹を切れ」と云い放ちました。
さらに、このかたと意見を同じくする観衆の一人が不肖に同意を求めてこられました。
不肖としては、己の意見と相容れない相手に自己基準の「武士道」を適用し、殿様でもないのに家臣でもない他人へ切腹を宣告する(本気ではないでしょうが)ことが武士道だとは思えませんので、「現代の武士道は人それぞれだと思いますよ」と苦笑したものです。
余りの時代錯誤に笑ってしまいましたが、しかしこのかたの云う武士道とは何を指すのだろうかとも考えました。新渡戸稲造の論でしょうか、佐賀鍋島藩の葉隠でしょうか。
翻って、では不肖の「道」とはなにを指すものなのかを考えさせられました。
例えば当会がかつて所属し、先般清田泰山師の斯界引退により惜しまれつつ解散となった神州居合道連盟では、
「武士道とは武士のみならず広く一般世民に至る迄浸透した日本古来の文化であり、その徳目は仁・義・礼・智・信・勇・雅を指す」
と規定していました。
宗家訓や道場訓などで、ある程度統一した「道」の価値観を共有する場合もありますが、具体的な個々の状況に対し、自らの倫理に照らす基準は人それぞれです。
不肖に関して云えば、居合とは日常に於いて常住坐臥、機に臨み変に応ずる心得である以上、道場の外であろうと無手であろうと、居合の心持を実社会に実践してこそ居合「道」としての意義が生まれるのではないかと考えています。
続きます。
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2021年2月1日 初出
雑考 道としての居合 其之三
下村派十六代 曽田虎彦師の残された江戸時代中期の英信流文献写し「居合兵法極意秘訣」(原本は十代林安大夫より明和元年1764年に十一代大黒元右衛門へ贈る)には、仕物(上意討)や不意打ちへの用心、自分が不意打ちを掛けられた時の対処、そして不意打ちを仕掛ける時の心得が子細に渡り書き残されています。
例えば「暇乞」は雑談に持ち込み、去り際に「ではまた近日…」と立ち上がりざまに鐺で突き倒して刺す、「火村風」では相手宅を訪問し、相手が煙草盆を出した処で火入れを掴んで打ち付ける、捕物に行くときは灰と石を包んだ目潰しを持つ、など具体的です。
業も「大小詰(刀を抜かず敵を制する英信流和術)の極意は霞蹴込につづまる」、つまり極意は目潰し金的蹴りである、と明言していたりします。
この当時、不意打ちは士道に悖ることでも何でもなくごく当たり前の兵法であり、むしろ対応出来ず切られるほうが不覚悟と云わんばかりです。
中世から維新までの武士道とは所謂「忠誠心」を賛美するもので、手段の善悪とは別の論です。
現代でイメージされるような正々堂々の武士道ではありません。
命の遣り取りである武術において隙をつく事、急所狙いは云う迄もなく当然の戦法ですが、現代のスポーツや一般的な武道では殺し合いではない試合が主であり、危険な技は禁じ手、反則とされる事で、本来最も効率的な業技法が卑怯、悪という感覚さえ生まれます。
然りとて殺伐とした中世の武士道が正しく、秩序ある現代の武士道が違う、という事ではありません。
その時代により善悪の定義は異なり、立場、個人の認識によりさらに異なるのが当たり前であり、同じ道場訓に基く武道観であっても、捉え方はそれぞれです。
不肖にとって現代の武士道、士道など倫理観を指す場合の「道」とは、己を律する戒律であり、他者へ押し付けることなど意味の無い使い方であると考えるものです。
続きます。
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2021年2月9日 初出
雑考 道としての居合 其之四
居合道歌に詠む
居合とは 人に斬られず人斬らず 己を責めて平らかの道
まさに「居合」の「道」を喝破しています。
ただしこの歌は元々
居合とは 人に切られず人切らず 唯請とめて平に勝
という歌が林崎新夢想流の傳書「秘歌之大事」(元禄十四年1701年)や前出の無雙直傳英信流「居合兵法極意秘訣」に収められているのですが、「己を責めて」の替歌はこれらの文献には見えず、出典が不明です。
この歌は、ただ己を曲げて事勿れに徹するという意ではないと解釈しています。
この歌に詠まれている居合の道とは、相克するものと和する心、難局に在って阿らない胆力を培い、社会にあって之を貫く覚悟を涵養するもの、と受け取っています。
不肖の考える居合道の実践とは「和して同ぜず」の実行であり、この歌のこころは同義であると認識しています。
道を標榜する武道、芸道は数多ありますが、道とは須くその業を精錬し、夫々の目的に対し純粋となる迄高める事により理(ことわり)に到るを本懐とするものと、不肖乍ら解釈しています。
そして道の修行とはどのような道であれ、稽古に依ってその致し様の無駄を排し、極限まで純度を上げる修錬と考えます。
赤熱した玉鋼をひたすら打つことにより不純物を叩き出して鋼の純度を上げる、日本刀の鍛錬にも通ずるものを感じます。
先ず手段を鎀煉し、鍛錬研磨を経て最後に残るものは純粋な本質であり、本質は理を内包し、理は万物に通ずるものである、という思想に基づけば、居合の稽古も道の修行たり得るものと云えるかもしれません。
もう少し続きます。
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2021年2月25日 初出
雑考 道としての居合 其之五
居合に於いて、武術としての本来的な目的とは即ち敵を制する事だと認識しています。
この目的を達する為の手段、致し様を一向追求する修錬が、居合に於ける道の修行に当たると考えています。
居合道として稽古される無雙直傳英信流の業は、少なくとも古傳にその業名を残す棒術、体術系統を除けば、本則的には刀の斬突により対手を制する形です。
然し乍ら、現代社会にあっては真剣を用い殺傷の技術を修錬する事に些かの日常性もありません。
故に制敵という目的は現実感を失い、ともすれば他者に危害を加えるという本来の決着を忌諱するあまりか、その動作の意味まで見失いがちです。
結果、相手を制する手段として稽古している筈の業が、観た目は同じでも独りで刃物を振り回す、極論すれば「踊り」に変質してしまいます。
踊りも立派な芸道の一つです。しかし最早、居合道とは別の道であると云えるでしょう。
本来の目的が失われ、手段のみが変質した形骸では、久年の精錬を繰り返した処で居合の理に辿り着く事は叶わないと考えるものです。
无拍
2021年3月16日 初出
雑考 道としての居合 其之六
一見すると刀踊りと同じような所作、それでは如何なる相違を以て形骸ならざる居合とするべきでしょうか。
不肖は現代の居合に於いて、ただ形の表面をなぞるだけでは道としてその求むる処に及ばないものと考えます。
当流に於いても現代では維新後の十七代大江正路師以降より宗家制が採られており、代が替わると業の末節が改変されるといった、ありがちな事態が何代も続いています。
二十一代福井聖山師の宗家訓には
「当流の居合を学ばんとする者は、古来より伝承せられ以って今日に及ぶ当流の形に聊かも私見を加うることなく、先師の遺された形を毫末も改変することなく、正しく後人に伝うるの強き信念を以って錬磨せられん事を切望する。(後略)」
とありますが、その実福井聖山師の業前も、先代二十代河野百錬師の業と全くの同じではありません。
先代や先々代直系の居合を頑なに守る、当代による業の改変を良しとしない人達に対し、当代の居合を学ぶ人達は、当代の業と違う、正統の業では無いと批難します。
逆に先代、先々代の業を堅守する人達は次代直系の人達に対し、次代は正流の業を変えてしまったと批難します。
宗家訓は次のように続きます。
「(前略)剣は心なり。心正しければ剣又正し。心正しからざれば剣又正しからず。
剣を学ばんとする者は技の末を追わずその根元を糺し、技により己が心を治め以って心の円成を期すべきである。
居合道は終生不退、全霊傾注の心術たるを心せよ。」
当代がどの様な改変をしようが、当代であるが故にそれが正流であり、当代が当代たる権利であり責任であると不肖は考えます。
当代の技法が変化するのは想定か理合に解釈の変化があっただけの事で、少なくとも同じ根源の直系であればどちらも使えて当然の範疇であり、つまりは技の末です。
また、先代、先々代も間違いなく宗家であり、正統の教義として残した業形口傳は喩え当代と違っても、それはまさしく先代、先々代の宗家正統の業です。
今日の無雙直傳英信流が元始の林崎居合、中興長谷川英信流の居合から形、業ともに変容している事は言を俟ちませんが、元来武術とは時代の実用である為に常時変化するものであり、流派の劔理、理合が一貫しているならば、どのような変化であれそれは無雙直傳英信流であると認識しています。
理合は想定があって初めて意味を成します。
要は想定と理合を理解し、それを実行した結果が顕在する業である事が、居合と刀踊りを分かつ際目と考えています。
教義の根源も理合も曖昧な、形のみ見映えする現代の創作ではなく、根源が盤石として揺るがず理合が明確に徹った教義であれば、当代の傳でも先代の傳でも、当会の系譜とは明治期に分かれ、全く別の傳承で続いてきた英信流であっても、道を求める修行の依代としていずれも正真の英信流であると考えるものです。
无拍
2021年3月25日 初出
雑考 道としての居合 其之七
居合の業、傳承がどれだけ完成されていたとしても、精神性を伴わない居合はあくまで居合術であり、必ずしも術は道たり得る訳では無い、というのが不肖の認識です。
居合道は術の鍛錬を以て成り立つものですが、いくら術に長けていても理を追求しない居合は道とは呼べないものと考えています。
元より居合とは生殺与奪の実用ですが、「形により心に入り業に依りて心を養う」との古人の言にある通り、常に彼我の命を遣り獲りする実用の想定を以て業を錬る事により、初めて自他の生死を晟かにする、心の修養と成り得るものと考えます。
習いの初歩より「道」である今日の居合道では「鞘の内」、つまり「斬れるが故に斬らない」ことが道の真髄のように唱えられ、「斬れる斬れない」「他者より強い弱い」等の詮議は当然の論外です。
しかし本来それは、業を百錬し居合の理に至った暁にある大悟であるはずです。
理に至る道としての稽古には、実際に斬れるかは兎も角、如何に制するか、即ち斬るかを稽える心持が肝要であると不肖は確信します。
実際に物を切る事、他人と仕合う事を肯定するものではなく、己が何を顕しているのかを見失わずに業を研かねば、事理一致に近づくを得ない、而して居合道では無いという程の意です。
この心的動作を包含した業の精錬の暁にあるのが「斬らず斬られず」の大悟であり、断じて「斬らず」は「斬れず」であってはなりません。
不詳にとっての居合道とは、即ち「想定」「理合」を解し踏まえ劔刃上、真劔の心持にて業を行う事こそ、居合を「道」たらしめる修行であり、居合道を名乗るに適うと稽えるものです。
斯界では「修行に終無し」などと云われます。
不肖の居合が踊りから抜け出せるものか、道は観えず五里霧中です。
道に至ることは無く、そのうえで敢えて道に道に至ろうとする稽古こそが、居合に於ける道であるのかもしれません。
雑考 道としての居合を終わります。
无拍
2021年4月27日 初出
