以前より表明している通り、当会では正坐之部、古傳に云う大森流 は実戦想定の形ではなく、 居合に必要な身体操作が集約された、合理的に組み立てられた基本稽古法という考えで指導しています 。 不肖が実戦想定では無いと考える理由を、不肖筆責の会員向け手附より引用します。 正坐之部 一本目 「前」より 正坐する我と、一足一刀の間を空けて正坐する対手と正対している想定になります。 独演形の稽古では、対手の身長体格は我と同じとして想定します。 (中略) これから割り出す一足一刀は、彼我の中心の間が五尺 150 ㎝、彼我の膝間二尺約 60 ㎝を空けて対座となります。 (中略) 対手は我と同様の業で腰を上げ抜き付けてくる、これに合わせ我も腰を上げ抜き付ける。 抜き付ける部位が首、顔面、敵の抜刀せんとする腕であり、且つ抜き付ける刀の高さは我の肩に水平となると、対手も腰を上げ柄を我の首根に向け抜き出していないと高さの辻褄が合いません。 対手が我と同じ動作で抜き付けていれば、対手の柄口六寸、または首に高さは合いますが、この間合で我がほぼ同時に抜き付けるとなると、抜き付ける互いの拳が鞘離れの前に交差してしまい、距離の辻褄が合いません。 対手が全く動かず、ただ切られるのであれば物打と対手との距離は一応合いますが、我が刀は相手の目より上、下手をすると頭上を通り過ぎてしまいます。 (中略) 抑々対手が全く動かず、ただ切られる想定は武術と云えるのか、という問題に直面します。 伝承された業を寸毫も変えるべからずとされ、そのじつ師によって変化を繰り返してきた当流斯界ではこの正坐之部に限らず、たとえ業の想定と理合に矛盾があっても、それを口にすることすら憚られるようになってしまっています。 これまで何度も述べていますが、己が何をしているかも稽えず刀を振り回してもそれは居合道にはなり得ない、と考えるものです。 当会としては、大森流で正しい身体運用を身に着けた先に実戦想定の長谷川流があり、正坐之部は立膝之部へ入る準備としての必須稽古と位置付けます。 かといって、ただの体操として刀を振り回すのは居合ではありません。 正坐之部においては間の想定に無理はあっても、あくまで対手へ抜き付け、受け流し、打ち込みを弛す心持をもって稽古し、大森流の実用は砕きで対応出来ればよしとします。 (会員向け「口傳...