斯界ではよく「腕で刀を振るな」と云います。
結論からいうと腕、言い換えれば腕力で振ると速度も威力も落ち、しかも後之先を取られやすくなるためです。
今回は真向諸手切りの想定で、この事を稽えてみます。
筋力で動くということは、ギアの入っている自動車と同じです。
エンジンの出力分は加速するが最高回転数以上には加速出来ず、例えば下り坂のように本来は重力による加速の余地があっても、ギアが噛んでいることで逆にエンジンブレーキとなってしまいます。
腕の筋肉で振る事は、腕の小さなエンジン(筋肉)で振ることになり限界も低く、腕力を鍛えることで多少は向上したとしても、所詮筋力の限界速度以上は力みがブレーキとなります。
これに対し、自転車は前進する力だけが伝わり、出力の限界を超えてからはギアが噛まないので、自動車のようにエンジンの回転=前進力ではなく、自転車が自身の重さで前進する慣性力に、漕ぐ力を加えてやるイメージです。
当会の古傳課程を稽古している門人は体感していると思いますが、六尺棒や杖の扱いで必須となる感覚です。
一寸丸の重い六尺棒など、力で振ろうとしても速く振れませんが、棒の重さを利用して体で操り、棒の遠心力を邪魔せず加速してやることで俊敏に繰り出すことが出来ます。
この時、棒の進みたい方向へ力を「加えて」やることで腕力では出せない加速を生みますが、支点である腰へ、振り手の手之裡を滑らせて寄せながら振り下ろすことで、自動車でいうギア比が可変していき、棒先の加速が2次曲線的に上がります。
棒を握らない事で筋力の限界はブレーキにはならず、滑らせることで筋力の限界を超えた加速が可能です。
また、遠心力は回転の中心から遠いほど強く働きます。
腕のエンジンのみで刀を振る場合、物打が作用点、回転の中心は肩、出力は上腕になりますが、肩甲骨の回転力を利用すれば中心は脊椎(個人的感覚では胸骨)となり物打までの円半径は大きくなり、エンジンは腕よりトルクの大きい背筋と腹筋が加わります。
稽古で指導している「背骨から切先までが一本の紐」という事と同義です。
さらに腰(丹田)、足裏と、物打から遠い部分を起点に振ることで遠心力は大きくなり、丹田の重さ、足の浮身などの、筋力ではない云わば地球の出力を物打一点に集中させ連動することで、慣性を越えた速度と威力が発生します。
まさに古来云われている「足至り、腰至り、腕至り、剣至る」の事です。
この速度と威力を作用点に集中させる技術が手之裡であり、握力任せに握るのではなく、左手小指から茶巾絞りに利かせることで物打に重力と遠心力が集中します。
手之裡については、いずれ別稿で稽えたいと思います。
話しを戻すと、腕だけで振る場合、最初の起こりが拳になりがちです。
真向に振り被った姿勢から、本来は左手の小指を締め込むことにより切先が動き始めますが、小指の出力だけでは小さく、早く振ろうとするあまり拳そのものを前に送ってしまいます。
拳から動いてしまうと遠心力の作用点が物打ではなく拳になってしまい、ましてや竹刀打のように前に動かしてしまうと、あとは手首のスナップと腕の振り下ろしだけで切ることになります。
これでは威力が無いばかりか、手首がスナップを利かせるより先に拳が下がってしまい、本来斬撃力を集中すべき対手の頭より下で物打が加速する、所謂「手元切り」となります。
足、腰、体幹の重さ、左手小指を少しずつ同時に使って起動すると、力まず且つ大きなトルクで切先を起動することが出来、切先が動き始めているからこそ全身各所の力を物打に乗せていくことができます。
即ち「序破急」の順を違えると、逆に速度も威力も失ってしまうということです。
さらに拳からの起動は、対手がある程度の遣い手であれば、起こりを読まれて後之先を取られる恰好の餌食です。
これも古傳課程を稽古している門人は、身を以て感じている処と思います。
古来、日本の武術では「起こりを消す」ことが重要視されてきました。
別稿「居合膝、居合腰について」でも触れましたが、「起こり」つまり予備動作を消すには全身を連動させることが肝要です。
組太刀の無い独演形ばかりの居合流派では、対人の意識が欠落して独り善がりの演舞になる恐れがありますが、起こりを消す、起こりを読む、後之先を仕掛けるなどの技術も置き去りになる可能性があります。
当会門人においては、たとえ古傳課程に進まずとも掟業「英信流居合道形」の中でこの技術を伝えられるものと考えます。
申し合せの木剣当てっこではなく、所作に込められた意味を能く味わうことで、この感覚を体得出来ればと願います。
